市河 得庵 いちかわ とくあん
   

滅亡之先 人心倨傲
得榮之先 必有謙虚
  滅亡 之に先んずるは 人心の倨傲(=おごり高ぶっていばる)なり
  栄えを得る 之に先んずるは 必ず謙虚有り
135p×34p

天保5年(1834)生〜大正9年(1920)11月22日歿
制作年 明治28年(1895)5月 62歳
 市河遂庵の子。明治43年7月発刊の『開港五十年紀念 横浜成功名誉鑑』によれば、名は三鼎、字は鉉吉、通称を周吾・小右衛門、号を得庵と称し、別号に小山林堂・潤暉軒などがある。天保5年江戸下谷に生まれる。文久2年(1862) 加賀藩主前田斉泰に仕えた。明治4年廃藩置県によって東京に帰り、明治7年徴されて大蔵省の官吏となる。4歳年少の万庵と同僚となった。明治8年命によって家蔵の書画を天覧に供し、翌9年これらの書画法帖百五十種を帝室に献納した。明治23年大蔵省を辞して、四国・九州・北陸各地を巡遊。明治25年東京から横浜・野毛に居を移し、のち中区北方町492番に転居。書道を教授して悠々自適の晩年を送った。
 引用の大冊は当時の横浜における各界紳士録で、書家では「市河得庵翁、三好芳石翁、原田東皐君」の三名が載せられている。得庵の肖像は面長で禿頭、いかにも品のよさそうな慈顔温容の老人である。併載の書は「丹心答聖明 七十六翁得庵」とあり、肉太の院体風の隷書幅である。
 引首印は「得庵」、「乙未(明治28年)爽月(5月)上澣為河村君嘱得庵鼎書」の下に、朱文の「三鼎之印」、白文の「家世々詩○」の落款印が押されている。

推奨サイト
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-718.html
http://www.daito.ac.jp/~oukodou/gallery/pic-709.html


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